山梨交通電車線ミニ公園整備の経緯
令和2年は、昭和5年の山梨交通電車線(通称 ボロ電)の開業から90周年、また昭和20年の山梨交通株式会社創業から75周年という節目の年にあたり、長い間山梨交通電車線や山梨交通バスをご愛顧いただいてきた県民の皆様に感謝する記念イベントを開催する計画でしたが、新型コロナウイルス感染拡大状況を勘案し、開催を断念いたしました。
コロナ禍において、社員の気持ちが縮んでしまいがちな中、モチベーションを高めるとともに、地域の皆様に地域交通に目を向けその存在について考えるきっかけになって欲しいと、弊社では山梨交通電車線旧貢川駅跡地にミニ公園を整備しました。
今回整備したミニ公園は、電車の原点の地に電車線跡の碑を新たに設置し、「くがわ」と書かれた駅名標、そして当時電車線で使用していたレールや敷石を使用して電車線の様子を再現しました。
記念碑は中国・広西省産の赤御影石を特注し、電車を正面から見た形に整形、歴代電車のボディーカラーを混ぜ合わせたような色あいの大変綺麗なものとなりました。
公園の整地・基礎から全ての作業を、弊社甲府整備工場のバス整備士が、仕事の合間に毎日現地に足を運び少しずつ仕上げたもので、当時の電車線の様子が見事に再現されています。
コロナ禍において、社員の気持ちが縮んでしまいがちな中、モチベーションを高めるとともに、地域の皆様に地域交通に目を向けその存在について考えるきっかけになって欲しいと、弊社では山梨交通電車線旧貢川駅跡地にミニ公園を整備しました。
今回整備したミニ公園は、電車の原点の地に電車線跡の碑を新たに設置し、「くがわ」と書かれた駅名標、そして当時電車線で使用していたレールや敷石を使用して電車線の様子を再現しました。
記念碑は中国・広西省産の赤御影石を特注し、電車を正面から見た形に整形、歴代電車のボディーカラーを混ぜ合わせたような色あいの大変綺麗なものとなりました。
公園の整地・基礎から全ての作業を、弊社甲府整備工場のバス整備士が、仕事の合間に毎日現地に足を運び少しずつ仕上げたもので、当時の電車線の様子が見事に再現されています。
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基礎の整地作業にあたるバス整備士
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ミニ公園として整備された旧貢川駅跡地
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電車部在職者がコダックフィルムで撮影
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釜無川鉄橋(460m)を渡る電車
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古市場駅
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多くのご来賓にご出席いただき挙行
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主催者を代表してあいさつする
弊社社長雨宮正英
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来賓代表樋口甲府市長様よりご祝辞を賜る
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記念碑の除幕
甲府市長(写真右)と社長(写真左)
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駅名標の除幕
交和会会長(写真左)と創業者ご子孫(写真右)
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参加者の記念写真
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バス整備士手作り原寸大の電車絵
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当時のボディーカラーを混ぜ合わせたような色あいの石に
貢川駅のレリーフを埋め込んだ記念碑正面
山梨交通電車線とは
明治大正期に全国ブームとなる私鉄開設や明治36年に甲府まで開通した中央線の影響もあってか、大正の中頃、中巨摩郡の鳳嶺銀行役員会で電車線構想が持ち上がった。
大正13年、発起人の金丸宗之助氏が社長に就任し「甲府電車軌道株式会社」が発足。出資金を募りながら許認可申請・用地買収など電車線計画の実務が始まった。
昭和4年1月16日、貢川駅・本社事務所予定地で起工式が行われた。新聞によると、北風の寒い日であったが鈴木県知事、成島甲府市長や大勢の関係者が集まったとされる。
しかし、莫大な工事費用がかかり、かつ、開業まで無収入の会社は大変厳しかったようで、特に在京県人の鉄道経営者たちが計画に難色を示し纏まった資金が調達できなかったことが、その後の経営を圧迫していった様子がうかがえる。
昭和4年4月には新造電車が納車され、東京から中央線を回送、竜王駅からは道路を人力で貢川車庫まで引いたとされる。同月、社名を「山梨電気鉄道株式会社」と変更。
電車線の開業は昭和5年5月1日で、貢川駅から大井駅の間が先行し、順次延伸され、昭和7年12月に甲府駅へ乗り入れて全線で運行可能となった。
開通後も資金ん難に苦しみ、昭和11年には「山梨電鉄軌道財団」として強制管理となり、昭和13年には「峡西電気鉄道株式会社」として再出発する。
昭和20年には、交通機関の戦時統合命令により「山梨交通株式会社 電車線」として引き継がれ、バス事業との二本柱で活躍することになる。 その後、甲府空襲により被害が生じたり、老朽設備の保守の必要、そして昭和34年の二度の台風災害で線路に大きな被害を受ける中復旧を重ねたが、自動車の普及やそのスピード・機動性に勝てず、効率化を求める経済界の要請もあり、昭和37年6月30日をもって廃線となった。
大正13年、発起人の金丸宗之助氏が社長に就任し「甲府電車軌道株式会社」が発足。出資金を募りながら許認可申請・用地買収など電車線計画の実務が始まった。
昭和4年1月16日、貢川駅・本社事務所予定地で起工式が行われた。新聞によると、北風の寒い日であったが鈴木県知事、成島甲府市長や大勢の関係者が集まったとされる。
しかし、莫大な工事費用がかかり、かつ、開業まで無収入の会社は大変厳しかったようで、特に在京県人の鉄道経営者たちが計画に難色を示し纏まった資金が調達できなかったことが、その後の経営を圧迫していった様子がうかがえる。
昭和4年4月には新造電車が納車され、東京から中央線を回送、竜王駅からは道路を人力で貢川車庫まで引いたとされる。同月、社名を「山梨電気鉄道株式会社」と変更。
電車線の開業は昭和5年5月1日で、貢川駅から大井駅の間が先行し、順次延伸され、昭和7年12月に甲府駅へ乗り入れて全線で運行可能となった。
開通後も資金ん難に苦しみ、昭和11年には「山梨電鉄軌道財団」として強制管理となり、昭和13年には「峡西電気鉄道株式会社」として再出発する。
昭和20年には、交通機関の戦時統合命令により「山梨交通株式会社 電車線」として引き継がれ、バス事業との二本柱で活躍することになる。 その後、甲府空襲により被害が生じたり、老朽設備の保守の必要、そして昭和34年の二度の台風災害で線路に大きな被害を受ける中復旧を重ねたが、自動車の普及やそのスピード・機動性に勝てず、効率化を求める経済界の要請もあり、昭和37年6月30日をもって廃線となった。
「ボロ電」の名前の由来は
少なくとも戦後、沿線の利用者は以下の理由から「ボロ電」と呼んでいた
〇「ボロ電」の由来は電車ではなく、社屋や駅が古かったから
〇当初より多くの駅を無人駅とし簡素な施設だった(国鉄との比較)
〇交差駅でトロリーポールの付け替え時、停電してしまうから
〇いつも混雑しているのに単機運転、サービスが良くないから
〇「ボロ電」の由来は電車ではなく、社屋や駅が古かったから
〇当初より多くの駅を無人駅とし簡素な施設だった(国鉄との比較)
〇交差駅でトロリーポールの付け替え時、停電してしまうから
〇いつも混雑しているのに単機運転、サービスが良くないから
記念碑・ミニ公園お披露目除幕式当日の様子
令和2年12月15日(火)にお披露目除幕式を挙行し、樋口雄一甲府市長をはじめ創業者ご子孫の金丸康信様他、多数のご来賓にご出席いただき無事執り行うことができました。
当日は、弊社のバス整備士が作成した原寸大の電車絵が登場し、ひときわ大きな歓声があがり、その様子を写真に収めようと報道陣や関係者が詰め寄せ大いに盛り上がりました。
是非、ミニ公園として整備された同所をご覧ください。
当日は、弊社のバス整備士が作成した原寸大の電車絵が登場し、ひときわ大きな歓声があがり、その様子を写真に収めようと報道陣や関係者が詰め寄せ大いに盛り上がりました。
是非、ミニ公園として整備された同所をご覧ください。
弊社の未来に向けて
弊社は今後もバス事業を通じ、この地の公共交通を担って参る所存であり、今回の記念碑の完成で弊社の長い歴史が『形』となり、この歴史を大切に受け継いでいくことはもちろんのこと山梨交通の明るい未来に向けて従業員一同力を合わせてまいりますので、引続きご愛顧の程、宜しくお願い申し上げます。